無私と天〜西郷隆盛に学ぶ天命を生きるヒント

「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。
 人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」(※1)

西郷隆盛と言えば「敬天愛人」(天を敬い人を愛する)という言葉ではないでしょうか。今回、「偉人から学ぶリーダーシップ塾」にて、明治の思想家・内村鑑三の著作『代表的日本人』という本の中で、西郷隆盛について学びを深めたので、改めて振り返ってみました。

江戸から明治という、それまで正しいとされてきたことが、180度変わってしまう激動の時代を生きた人物に思いを馳せることで、今の私たちに必要な精神性のヒントがいただけるのではと思います。

西郷隆盛の生き方

西郷隆盛が成したことについて、歴史に詳しいわけではないので、それぞれにお調べいただくとして、ひと言で申し上げると「明治維新の立役者」でしょう。「無欲」「質素な生活」「庶民性」・・・といったキーワードが列挙されるのではないでしょうか。

その中で、私が西郷隆盛に魅了されたのは、「天」とつながり、「私」という存在でありながら、「私」という存在を超えてそれを実践していた、というところです。

「天」とは「大いなるもの」とか「宇宙」とか、宗教を信仰している人なら「神」と言うかもしれません。

宗教観を抜きにしても、日本人にとっては「お天道様が見ている」というような、漠然とした、しかしそこに存在を感じられる何か、という感覚を持ちやすいのではないでしょうか。

「天」を考えるときに、まずは反対の「私」という存在について、考えていきたいと思います。

「私たちは生きているのではなく、生かされている」という言葉をどこかで聞いたことがあるかもしれません。自分の力で生きているのではなく、たくさんの人のサポートや支えがあるからこそ、生きていけているんだ、ということでしょう。

ビジネスで成功した人の中には、「自分ひとりの力でここまで来たのではなく、たくさんの人に引き上げてもらって、ここまでこれた」とおっしゃる方もいます。「自分でやりたいと思ったわけではなくて、ただひたすら、ここまでやってきた」という方もいらっしゃいます。

そうしたとき、思うのです。「私」という存在は、何をもって「私」なのかと。

自分が自分を認識する「私」とはいったい何か?

人が「私」の意志だと思うとき、その中に2種類あります。

ひとつは、固有名詞を持つ個人として、肉体としての「私」。例えば、小さな子どもが、目の前のおもちゃで遊びたい!と駄々をこねるとき、それは、個人としての「私」の意識です。

もうひとつは、私だと思いながら、全体性や調和を見ている集合意識の「私」。宗教観を抜きにして、世界の平和のために活動をするダライ・ラマ法王や、マザー・テレサや、マハトマ・ガンディーやネルソン・マンデラなど…、自分の「やりたい」を超え、「やらなければ」も超えて、あくまで「そうするのが当然だ」という導かれる生き方をするとき、それは、天とつながった私としての生き方、個を超えた意識ではないでしょうか。

人間の複雑さで、他者のため、と言いながらの自己実現は、結局自分がすごいと思われたいといった欲望につながることもあるので難しいところではあります。

それについて、西郷隆盛はこう語ります。

「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分どおり成功していながら、残りの二分のところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功がみえるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである」(※1)

そういう、ある意味人間らしさや弱さを西郷隆盛はよく知っていて、だからこそ、質素な生活を心がけていたし、謙虚であることを常に意識していたのではないでしょうか。それに甘んじ許してしまうと、どこまでも傲慢になりえるのが人間だし、自分もそういうところを持っている、人は等しくその性質を持っている。持っていること自体が悪いのではなく、それに克つからこそ、成功なのだと教えてくれます。

「無私」だけれど「滅私」ではない

「自分であることを望んで大きなものからはぐれることも、大きなものに取り込まれて自分を滅するようなことも、あってはならない。何かを為すときには、両方が矛盾しないで成り立つような道を探す――それを実践した先人が西郷だったのです。」(※2)

私という存在はない、ということと、私を消す、ということに、微妙な違いだけれど大きな差があると思うのです。

例えば、「利他の精神」という考えがあります。相手の、または他人の利益や便益を重んじ、自己をささげる心構えのことを言いますが、私自身はこれはややもすると「自己犠牲」にもつながりやすいと感じるのです。

圧倒的な自己が確立されている人にとっては、利他として、他者のことを考え、他に利する行動を意識することは有効なのですが、誤解を恐れない言葉を使えば、自分の価値を小さく置きがちな人は、もともと自分をないがしろにし、自分よりも他人を優先しがちです。

(その奥底には、他人を優先することで自分への愛情を手に入れることができたから、などと、自分に愛が欲しいがため、ということもありますが。)

そんな人に「利他」という言葉は正直合いません。利他よりも、もっと自分を見つめる、まずは自分が自分を大切にすることに注力すべき人もいます。

そのときに、西郷隆盛のことを思うのです。彼は、利他の精神ではあるけれど、決して自分を殺していない、自分を抹消していない、自分というものがありながら、大いなるものの導きを実践していると感じるのです。

天と通じる

「『天』を信じることは、常に自分自身を信じることをも意味する」(※1)

「天を知るということは自分自身を知ることである。ただ、ここで言われている『自分自身』は、いわゆる『私』ではありません。『無私の私』です。西郷にとって、生きるとは無私とは何かを問う道だった――というのが内村の考えです。」(※2)

この部分を読んだとき、以前、出雲大社を参拝したときのことを思い出しました。地元のガイドさんについてお話をお伺いしていたときです。出雲大社に祀られている、大国主命(オオクニヌシノミコト)は国造りの半ばで思案していたところ、海の向こうから光り輝く玉が現れ、そのアドバイス通りに動いたところ、国がどんどん豊かになり、国づくりを完了させます。しかし、その海から現れた玉については、古事記には明確に記載がないそうです。

その話を聞いた時、ふと、大国主命は、自分自身の内なる声を聞いたのではないか、と思いました。表現としては、海の向こうから光る玉が‥となっているようですが、これは勝手な妄想ですが、海に向かって心静かに瞑想をしていたところ、ふっと内から光りが沸き起こった感覚になり、ふとそのアドバイスが湧いたのではないかと感じたのです。

西郷隆盛の言うところの「天」と共通することを感じました。

先程、「天」とは、大いなるもの、神、宇宙、そんな言い換えができるかも、と言いました。

でも、究極、すべてが自分自身である。

そこに、滅私と無私の違いが顕著に表れていると思うのです。

「天」の意志をいかに汲み取るのか

「明治維新が抱える問題や矛盾を一身に背負って、西南戦争で亡くなっていきます。維新に関わった多くの人が最終目標にしていたところは、西郷にとって始まりにすぎませんでした。多くの人が、あることを成し遂げた、と感じていた場所こそが西郷の出発点だったのです。」(※2)

西郷隆盛の生き方には、なにか、自分の意志とは無関係なところで、いえ、関係はあるのだけれど、意志が到底及ばないところで突き動かされていたのではないかと感じられます。

流れに身を任せることは、自分の力を放棄することとは異なります。流れに乗りながらも、流れを読み、舵をとるのは自分だということです。

余談ですが、以前、アメリカのグランド・キャニオンに行ったときのことです。降り立ったときには、でかいなーすごいなー。くらいの感想だったのですが、飛行機で上空からその峡谷を見たときに、フッと「自分は大きな流れの中の一部なんだ」ということを感じました。
目の前のこと、自分の人生でジタバタしているけれど、それがフッと俯瞰されて、大きな流れに逆らうことが土台無理なことで、身を任せることもまた、大切だと感じたのです。それは、川に流れる笹舟のような、上流に行こうともがき苦しむのではなく、川の流れに身を委ねるからこそ、安全にスムーズに進むことができる…そんな感覚を覚えました。

いかに西郷隆盛は、大きな流れを読み、身を委ねたのか。いかに舵取りをしたのか。

世のため人のため、天命と信じ、成し遂げた明治維新が、自分の思いと異なる方向に動き出したとき、どんな思いを持っていたのだろうか。

おそらく負け戦だと分かっていただろう、西南戦争のリーダーを引き受けた、本当の気持ちは?

正解はありませんが、その状況に置かれたとき、自分ならどうするのか、を考えることは自由です。

「天に『真心をこめて接』するとは、自分の思いを天に届けようとすることではありません。むしろ、自分の願望を少し横に置いてみて、世に求められているように生きてみる、ということではないでしょうか。」(※2)

 

【注釈】
※1引用:『代表的日本人』岩波文庫 内村 鑑三 著
※2引用:NHKテキスト『100分de名著 代表的日本人

コメント

タイトルとURLをコピーしました